テニミュ芸術論
こんにちはいきです
久しぶりのブログ更新です。
みなさまお元気でしょうか?
もうすぐ年明けということで世間はクリスマスや正月準備などで慌ただしくなっております。
どうせなら年末ということで
僕の大好きなある一つのことについて語ろうと思います。
それは「テニミュ」です。
テニミュはテニプリのコンテンツの一つでテニプリの世界観をミュージカルで表したものです。
それと同時にニコニコ動画の方では、演者のセリフ一つ一つを空耳でコメントに書き込んでいくネタコンテンツとしての要素が強いです。
そんな、ネタにされながらも愛されているテニミュなのですが
「音楽をやっている人間ならテニミュを見るべきだ」
と僕は思うのです(テニミュだけじゃなくてミュージカルならなんでもいいかも)
それではなぜテニミュを?
その理由についてこの記事では書いていこうと思います。
演技を通して表す、「キャラクターの仮面をかぶる」という行為
次の動画をご覧ください。
これは立海大付属の仁王という
「様々な選手になりきってテニスをするキャラ」
です。(本編をよく知らないので曖昧ではある)
もちろんこの曲でもそんな彼のプレイスタイルをよく表している一面が伺えます。
0:37~青学の手塚や、四天宝寺の白石になりきって彼が戦う場面
彼の歌い方をじっくりと聞いてみてほしいです。
彼がキャラによってその声色を変えているのがわかりますか?
手塚なら落ち着いた声でその冷静さを出しています。
白石も冷静なタイプのキャラですが、手塚と違ってその声に艶を持たせて歌っています。
そして、仁王の声自体は冷静とまた違った、彼自身の「自分がゲームの支配者である」と信じて疑わないような余裕を持った歌い方をしています。
ここで知ってほしいのは彼らがどのような性格ではありません。
彼が役の性格を声色(音色)一つで自由自在に変えていることです。
実際、テニミュは音楽の正確性(ピッチやら)などの分野においては
少し残念な部分もあり、僕もちょいちょいネタにしているのですが()
「ダメな作品」といっているわけではありません。
むしろ、世界観の再現性において「かなり作り込まれた作品」なのです。
そこにはカラオケ採点のような「音程の良し悪し、ビブラートの細かさ」はありません。
純粋な「音楽という表現」がそこにあるだけなのです。
役者の「歌を使って、キャラを表現する」という簡単に見えてとても難しい営みだけがそこにあるのです。
気づかされる「性格や気持ちの仮面をかぶる」ことの大切さ
音楽をする人間は、「音楽で表現する。」という行為をする前に多くの情報にのめされてしまいます。
「誰々の歌が上手い。」
「あいつはビブラートができないので、下手くそ。」
僕らの体全身から聴衆に向けて吐き出される「音楽」は
そのほとんどが「上手いか下手か」という極端な評価として処理されてしまうのです。
その評価を受け、音楽をする人間も「より上手に、よりテクニカルに」を目指そうとしてしまいます。
そんな営みは本当に有意義なものなのでしょうか?
歌の所々でビブラートをかけ、上手い上手いと言われて満足でしょうか?
きっとそれも楽しみ方の一つなのでしょう。
しかし、それを決して「表現」とは言いません。
なぜなら、表現とは「人の思想、感情を何かしらの形として作り上げる営み」だからです。
完璧というものは「状態」であり、「感情や思想」ではないのです。
そのため、このテニミュをみてもう一度「表現」という心を大切にしてほしいです。
悲しいをどうやって表現しようか?嬉しいをどう表現しようか?
そこに脳みそを使ってほしいのです。
僕はそう思います。
ごちゃごちゃ言いましたが、
要は「テニミュ沼にハマれってことです」
最後に、テニミュの中でもお気に入りの立海大付属のとある動画を貼ります。
はぁ〜好き。
終わり