妄言を吐き出すところ

心が素直に歪んだ 綺麗な汚物大学生です

観察をすること

私が住んでいる県にもついに新型コロナウイルスの感染者が確認されたという。ついに来たか、むしろ今までいなかったのがおかしいなど種々様々な意見があるが、そんなことはどうでもよく県ごとに発表されていく感じが、新型コロナウイルスの県境への理解を示しているようで笑える。

私は、2月中旬ごろに旅行で台湾へ行く機会があった。バイト先の職場の人にそういった話をしたら、台湾は新型コロナウイルスが危ないのではないかという心配を示した。

どうやら彼によると、台湾は中国や韓国と同じように新型コロナウイルスが蔓延しているように思え、そのような状況下で旅行にいくのは思慮が浅いことではないか、という意味での心配らしい。

台湾なんてのは日本と同じ島国であり、中国にユーラシア大陸で繋がった韓国と比べてみてもそのようなリスクは小さいものであるはず。(むしろ韓国や中国から船で入国しやすい日本の方がリスクは大きくないだろうか)そう思いながら、私は「日本にいるようなものですよ」とやんわり答えた。

しかし私の話は、彼にとって全く外国語であったようだった。中国と台湾を同じ国のように捉えているのではなかろうか。現地の人がこれでは悲しんでしまう。

などと考えていたら、もう三月だ。日本では1000人以上の感染者が確認されている。彼はいまだに「東京は危険だ」などと言った論を展開している。

彼のように何かについて「〇〇は危険だ」と考えるためには「観察」という行為が必要になってくる。「観察」とは、現象をありのままの状態で見る行為に他ならない。

そういう意味で彼は観察できていないとも言えるが、厳密に考えてしまうともはや誰もが観察を行えないという哲学的命題に当たってしまうため「物事を見て、意見などの意味を持つものへと昇華させる行為」とここでは定義していく。

例えば、ある人の普段の行動を見て「あの人は怒りっぽい人である」と考えることなどはまさに「観察」である。その人が怒ったという現象を何度か見たことで事象が結びつき怒りっぽい人であるという論が得られたからだ。

観察者からしてみれば、対象が自身の前で見せる行動のほとんどがそれでに通ったものであるのならば、「そのような傾向にようだ」と考えてもいいのだろう。彼が認識できていないものは、彼の世界にとって存在しないことと同義であるように思えるからだ。

しかし、「思える」だけであることに注意をしたい。観察者が見ていない範囲で対象は全く違う行動をする可能性は排除しきれない。学校で冷淡に怒るような教師が実は子煩悩であるケースは度々聞かれるものである。

このように「観察者」である私たちにとって、観察できる範囲とは限られたものであるために絶対正しいものとして意見を生み出すことはできない。誤っている可能性も大いにあるのだ。

「〇〇は危険」と言っていた職場の彼は、海外でコロナウイルスが蔓延していく様を捉えて、日本以外の国は危険だという意見を持ったのである。

だが、彼の意見の誤りが限られた観察範囲によるものだとは思えない。ここで「観察の仕方」を考える必要が出てくる。「観察の仕方」は、観察者の対象への考え方や抽象度によるものであるであると言えるだろう。

犬を見た時、観察者が犬に対してそれほど興味を持っていなければ、彼にとってブルドックでもゴールデンレトリバーでも犬として目に映る。これは抽象度の問題である。

あるいは学問は役に立たないと嘆く子どもと、役に立つと諭そうとする大人ではいくら話し合っても互いが納得できる地点を見つけることはできず、「確かに役に立たないかもしれないが」と大人の方が事実上の敗北宣言をしながらもゴリ押そうとする展開に陥りがちである。

これは、「役に立つ」というニュアンスが子どもと大人のそれで違っているからだ。子どものそれは“それで明日の飯は食っていけるか”という次元のものであり、大人が語るものは“自身の行動を律するものとして”の次元であることが多い。ここで、学問の観察の仕方が異なっているため適切な話が互いにできていないのである。(さらに悪いことに話ができていると思い込んでいる人の方がここでは多い。)

そのようなことが日常茶飯事で起きてしまうものなのだから、あらゆる観察で得られた論は誤っていることの方が多い。明らかに誤りで思えるものを論破している(ように見える)ものであっても、“完全に正しい”という意味を厳密には持たず、あくまで民主的な支持を得た正しさでしかない。(民主的正しさの脆さは君もわかっているだろう)

また、観察者は「自身が対象から一定の距離離れていると信じる」ことでしか観察はできない。

ライオンに追いかけられることを考えよう。ライオンからある程度の距離離れている場合、それから逃げ切るための策がいくつか思いつくだろう。それは、周りの環境を観察し、得たものだ。もし、身体の半分はライオンに噛まれている最中であるならどうだろう。そこから逃げ切るための策を考えられるだろうか。もはや、周りを見るような余裕もないであろう。

ここで「信じる」という言葉に注意してもらいたい。一定の距離というのは客観的なものでないことをここでは表している。そのため、ある程度距離が離れていてもそうでないと観察者が信じるのならば、ライオンと目があった途端全てを諦める可能性も十分あるということだ。

新型コロナウイルスの彼は、日本であれば自分の身の回りであれば大丈夫だと思っている。だからこそ、他国の状況を観察し「台湾は危険だ」という考えに至れたのだろう。(それが正しいかどうかは置いといて)

諸外国と日本は一定の距離を持つ、新型コロナウイルスと自分の生活は一定の距離を持つ、そのように信じることができなければ、自国の事情を忘れて他国に行く人の心配などしないものである。それが中国などであればまだしも。

ここから発展して、「信じる」ということについて考察を深めていきたいのだが、これについて言及しようとするのなら数年はかかりそうな匂いがするため、書くことはないだろう。多分。

 

最後に

「人間観察」を趣味とするものが一般的に異邦人のような振る舞いを見せることの意味がわかったように思われる。