妄言を吐き出すところ

心が素直に歪んだ 綺麗な汚物大学生です

エモ論

みなさんこんにちは
いきです。
いきなりジョジョみたいな台詞を書いて申し訳ありませんね。
ちなみにゲロッカスとは僕のツイッターでの趣味垢の名前の一つでした。
 
なんでこんな名前だったのかよくわからないですが、日々溢れている僕の汚さが名前にも現れている気がしてとてもいい感じですね。でも、これ見てる人のほとんどが僕のツイッターも一緒に見てると思うから、別に“げろッカス”なんて名前使わなくてもいいと思うんですけどね。
 
まあ、いいでしょう。
ちなみに4部と6部がジョジョの中では好きですね。
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さて、人の感情表現に人一倍厳しい事で有名な僕なのですが
そんな僕は「エモい」という言葉についてよく噛みついています。
 
以下ツイート
 

 

 
 
こんな感じで過激なツイートをしていますが、これ見てて
「うわぁ、こんなツイート敵を作るだけですやん」
と思ってしまいました。今見直すとめちゃくちゃですね。引きます。
 
まぁ慢性的な厨二病の僕は
「なんでもかんでも唾をはきかける症候群」も併発しているので
こんな発言をすることが時々あるわけなのです。許して。
道端で痰を吐くおじさんより嫌なやつであるのは認めます、ええ。
 
しかしながら、これを見ている善良な僕の養分、読者さんには
なんでもかんでも難癖をつける洗濯おばさんのような性格だとはさすがに思って欲しくないため
僕なりのエモいという言葉についての「考察」をこのブログに記せたらと思います。
 

エモいって便利

 
読者さんの中には
日々をエモいで彩ることができるようなエモーショナルマスターもいれば
エモいなんて初めて知ったし、使い道もわかんないよぉ><っていうエモ若葉もいると思うので
その差をなるべく埋めてから話ができるように「エモい」の意味と歴史について簡単に書いていこうと思います。
 
エモいとは
英語の「emotional」を由来とした「感情が動かされた状態」、「感情が高まって強く訴えかける心の動き」を意味します。
 
この文章だけではあまりに抽象的すぎてぼんやりとした響きしか感じられないのですが、
つまり「事象を原因とした時に結果として起こる感情の変化」という感じですかね。
 
ん〜?なんで「つまり」っていって
noteでエセ哲学自己啓発記事書いている人みたいな文体になってしまうんだろう。
あれです。
「かわいい」とか
「かっこいい」とか
「気持ちがいい…っ(やめようね)」とか
そういう気持ちの総称を「エモい」って呼ぶらしいです。
 
やはり総称だけあって、表現の幅使えるところはかなり多いですね。
 
朝起きて「う〜ん、エモい!」
ご飯食べて「う〜ん、エモい!」
学校行って「う〜ん、エモい!」
困難は分割せよ「う〜ん、ルロイ!」
永沢君の家が火事にあって「う〜ん、エモい!」
いやぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜エモエモのエモですな!w
いいですね。すごい便利な言葉で使い勝手がいいです。
言葉のスマートフォンって感じです。例えがてんでダメですね。
 
エモいの利便性はよくわかったのでもう少し踏み込んでいきます。
 
 

多分みんなが使う『エモい』の意味

 

 
さて、上記のようなエモいの使い方を僕の周りでは見たことが全くないですし
これほどまでにハイコンテクストな会話を繰り広げたこともありません。
となると、エモいには違う意味がありそうです。ここでwikipediaの概説後半を引用します。
 
気持ちをストレートに表現できない時、「哀愁を帯びた様」などに用いられる。
 
あー、みんなが使ってるのだいたいこれだわ。(結論)
 
確かにそうですね。
主人公が正ヒロインといい感じになってるのを、遠くから見てなんとも言えない顔している負けヒロインとか見ているとこんな感情わいてきますよね。えっ僕だけ?
 

確かに便利。でも、

 
確かに『かわいい』『かっこいい』だけだと、どうしても言葉と気持ちの乖離が起きてしまう表現があります。そのため、言語化しきれない微細な部分に対して「エモい」という言葉で表現します。僕もエモいって言葉使いたくなりますからね。名作漫画の終わり方は終わって欲しいような終わって欲しくないような複雑な感情を催します。
しかし、そうなってしまうと全ての感情に対して「簡単に言語化できないような複雑なもの(なのではないか)」という認識を働かせてしまうため、とうとう感情表現が「エモい」一択になってしまうのです。
朝焼けとともにタバコを一服、うーんエモい
クラシックを聴きながらAV鑑賞、うーんエモい
ポケモンデジモンが存在する中で漂うモンスターファーム、うーんエモい
 
なんて感じですね。
 
現在例えようのない感情に「エモい」と仮決定するのは、まあいいです。なぜなら、時間は流れ行くというものでどこかしらの地点で何かしらの決定をしないといけないことがあるからです。いつまでも「これは、うーんなんていうんだろう」って不明瞭なまま続けていくと言葉にできないイライラを感じざるを得ません。そのため、「今は『エモい』ってことにしておこう」と思うことは悪いことではないのです。
 
しかしながら、『エモい』という言葉を何のプロセスも得ずに適切な表現だと採用し続けることに対しては心の中を蝕まれていくような不安に襲われてしまいます。
『エモい』というのは便利なもので日常の感情表現を全て表せるし、なんなら全ての感情を複雑なものだと認識してそこから『エモい』と名付けることさえ可能です。前者は当然ながら、後者にも恐ろしさを感じます。
 
感情表現は、人の普段の認識から生まれるもの。甘いものに群がる蟻に生の執着を感じ愛おしく思えたのなら可愛いと言えます。また、その姿を人間に例え、理性を失くしひたすら本能に従う様を恐ろしいと思えたのなら気持ち悪いとも言えます。
 
このように個人の認識によって成り立つ『感情』は千差万別であり、誰かの感情表現に感化されることはあっても、誰かの感情に干渉される必要はないのです。
人の感想を見て「そういう考えもあるのか」としみじみ感じ別の感情を抱くことはあっても、「みんなこう思っていそうだから、そうなのだろう」というのはないということです。認識と感情が断絶されてしまうからです。
もちろん後者において、「私はこのように思っているが、みんなそう思っているから、形だけでもそう思うと偽っておこう。」というのは構いません。ただ、「私はみんなと違うように感じているが、みんなそう思っているのだからそれが正解なのだ。」と自分を邪と考えることがそもそもの認識とずれていて気持ち悪いのです。
 
それではなぜ、後者のようなことが度々起きるのでしょうか?それは「常に正しいものがある」という通念が蔓延しているからです。(ここで急に韻みたいなのを踏む。)
それは、中途半端な道徳教育や音楽鑑賞の授業に見ることができます。「音楽を聴いて感想を書きなさい」という授業に「なんて書けばいいのだろう」と思う人は少なからずいると思います。その原因は、音楽を聴いて感想を持ったことなどなかったなど様々なものがありますが、「自分の感想があっているのかわからない」というのもその一つなのです。
 
そして、「感情とは個人の体験などから生まれる認識によるものだ」という唯一の答えを教えてくれなかった教師や親、それに気づけなかった自分によるものなのです。『答え』を教わらなかった人はどうしても「感情表現にも正しいものがある」と無意識的に思い込んでしまいます。個性主義を謳う人にも見られることです。自分の感情が他の人と違っていたらと不安に感じるのです。
 
その時に役立つのが『エモい』です。『エモい』という表現は「かわいい」「かっこいい」よりも抽象的なものなのでほぼ外れることはありません。『エモい』という表現に間違いがないと知ると、『エモい』にますます依存します。どんな体験も『エモい』につながるのだと考え、全ての感情を複雑だと考え始めます。
 
そうなると、出来事への認識がマニュアル的なものになります。なぜなら、全ての感情を複雑なものだと結論づけ、そのように考えると今まで体験してきた過去の記憶は今あるものを認識することに無意味なものとなり、これからの認識においてもそれが通じるからです。
 
コンビニや飲食バイトにおけるマニュアル主義を「機械的」だと思う人がいるように、このような感情表現プロセスも機械的だと思えるのです。
そうして、機械的な感情表現プロセスは画一化していきます。この流れは、あくまで個性を重んじる現代社会においてそぐわないものなのです。
 
そのため『エモい』という言葉を使うにしても、それに至るプロセスを疎かにしてはいけません。なぜ『エモい』と思ったのか、それについて過去の体験などと照らし合わせて初めて個性になるのだと思います。
 
長くなったのでここで終わろうと思います。

 

うーん、この

 

 

補足
僕の中でのエモいの位置付け

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再利用でごめんなさい